
-上原暢子の「過去」-

--
暢子先生、これまでの人生で大変だったことは?
暢子先生:
まずパッと思い浮かぶのは、アメリカでの生活かな。子供が3歳と4歳の頃、3年3ヶ月ボストンに住んでた時が、私の暗黒時代。
まず食事が作れない。日本では、食材宅配サービスのヨシケイがあったからこそ何とかできてたからね。
私は仕事ないからお金は減っていくし、保育園はめちゃくちゃ高いし。「専業主婦」「子育て」「言葉」「貧乏生活」の壁がいっぺんに(泣)
--
てっきりセレブなアメリカ生活かと、、
暢子先生:
全然!
2ドル50セントのタリーズコーヒーを我慢するような貧乏生活。
ゴミの日に、人の家のゴミをアジア系の人が持っていくのを見たの。それいいんだ!と思って、ステンレスの台とか、拭けばきれいになるゴミを私も拾ってきたり。
--
そもそも、なぜアメリカへ?
暢子先生:
夫の仕事の関係です。
そもそも関東から出る気すらなかったのにアメリカなんて!行きたくない!1人で行って!て言ったら、母に「家族みんなで一緒に行きなさい」と言われて。
母はすごく賢くて尊敬しているからこそ、悩んだ時は「母ならどうするかな」ってよく思ってた。だから、泣く泣くついて行ったんだよね。

--
流れにあらがわないことで乗り越えたのですか?
暢子先生:
めちゃめちゃあらがったよ。
夫と取っ組み合いの喧嘩もしたし。そりゃもう、ガチンコやりました。
だけど、アメリカでの生活で子供との時間をたくさん経験できて、子供との時間も、楽しくてすごく大切なのもよくわかった。
だから私は、日本に帰ったら仕事もするけど子供のこともやりたいから、絶対もうフルタイムで働かないって決めたの。
--
他にもアメリカ生活の恩恵はありましたか?
暢子先生:
それはもう。私の底力は、アメリカ生活の賜物でしかない。
日本にいて日本語が通じるから「できないことなんかない」って腹の底から思えるようになった。
できないとか躊躇してる人見ると、
海外で貧乏生活してみ
って思う。
--
人生の転機を教えてください。
暢子先生:
アメリカでの生活と、子育てのつまづきかな。
「勉強はできて当然」っていう環境で育ってきたのね。
計算ドリル3回やるなら、 皆が終わる頃には私は5回終わってるのが「私の普通」。 逆に勉強教える方だったし。
だから自分の子供も、当然できると思ってた。 でも、そういう風にお尻を叩いていたらみんなつぶれて3人とも不登校になっちゃった。 時期はそれぞれなんだけどね。
--
先生、教育ママだったのですか?!
暢子先生:
こう見えてめちゃめちゃ教育ママだった。(笑)
--
できない人の気持ちが分かんなかったんですよね?
暢子先生:
ぜーんぜんわからなかった。(笑)
努力と成果が比例する世界にずっといたから、そうじゃない人たちって、努力が足りない人って思ってた。
それで子供たちにも「足りない!」「やれ!」って。
--
子育てのつまづきはどう乗り越えましたか?
暢子先生:
子供が不登校になって悩んだとき、アドラー心理学の「課題の分離」と心理カウンセラーの心屋仁之助さんが提唱する「前者論・後者論」に出逢い、目から鱗がボロボロ落ちて。
結局私が子育てを一生懸命やってたのは「私、頑張ってるよ!」っていうのを「私が」「親に」見せたかったんだなってことに気がついたし、その子が持っていないキャパのものを求めていたんだって。
そこから色んなものがほどけていって、ちょっとずつ実験を繰り返しながら子供との関係が変わっていきました。

--
具体的にはどういう風に?
暢子先生:
今まで「何やってんの!」って言ってたところを、黙ることから始めた。
でも、目の前の事はすぐに変わらないよね。
「なんなのこの部屋?」とか「宿題やったの?」とか「この前のテストは?」とか今まで言ってたのを「黙らなくちゃいけない」となったら、家に帰るのが嫌になっちゃってね。
だから家が近づくと、動悸がするようになっちゃって。
--
動悸ですか。。
暢子先生:
「この私が、動悸?」
と思って。
おかしいと思って夫に、「家に帰ろうとすると具合が悪くなるから1週間家から離れたい。仕事に行ったら夜遅くまで帰らないから、ご飯とか犬の散歩とかほんとお願いします。子供たちと相談しながらやって」って、お願いしたの。
--
1週間お母さんが留守になった結果は?
暢子先生:
3日後ぐらいに家族からSOSがあがると思ったら、なーーーんにも起こらなかった。
私がいつも作ってるような彩りの弁当が作られて、洗濯物も洗い物も山になってなくて。私がいなくても家が回っていたことに愕然として。
--
当時お子さんは何歳くらいだったんですか?
暢子先生:
上が高一で、真ん中が中三で、下の子が小一かな。
--
すごい気付きでしたよね?
暢子先生:
うん、家族を「私がいないと何もできないダメな人認定」してたの私だ、「私がいなくちゃダメになる」と思い込んでいたことに気がついて。
「なんだ、私がいなくてもできるじゃん。」ってわかったから、ちょっとずつちょっとずつ手を離して。そしたら最終、1ヶ月も家を空けられるようになりました。
--
先生はもともと翼が開いていたけど、お母さんになって一回閉じて、もう一回開いた感じですよね?(編集長)
暢子先生:
そう、子供ができて私が自ら閉じた翼を、子供達がまた開いてくれた。
私の母は5人も子供を育てたし、大好きで尊敬しているからこそ、母を盲信したんだよね。
だけどね、4、5年くらい前かな、母に決別宣言したの。
--
決別宣言?!
暢子先生:
子供のことで母からちょこっと言われたんだけどね、全然同意できなくて。
「ママは、ママのやり方でうまくいったから、その方法を私に伝えていると思うんだけど、ママとは世代も、仕事も、住んでる環境も、全然違う。
全然状況が違うから、ママの時はうまく行った方法かもしれないけど、私にはフィットしない。子供を持ってわかったけど、親の幸せって子供が笑ってることだよね。
ということは、私が笑ってないとママは幸せじゃないよね。だから私は、私が笑う方法でやる」って決別宣言をしたの、LINEで。

--
お母様はわかってくれましたか?
暢子先生:
既読になって3日後に「わかりました」って。色々思うところはあるんでしょうけど、黙って見ててくれています。
取材・加藤智子
◆暢子先生の連載
◆Dr.Nobukoの「死ぬWS」は女人生の必須科目
全ての悩みはいっぺん死ねば解決する!