とうとうやってきた「風の時代」。
「常識」という名の見えない檻の中で、ずっとおりたたんでいた翼を広げ、自由な世界へ飛び込んでいくとき。
この連載では、すでにそうした生き方を体現されている「翼を広げた人たち」をご紹介いたします。
今回ご登場いただくのは、訪問診療医の上原暢子(のぶこ)先生。
あなたの『自由の翼』でどこまでも飛んでいけるように、、その力となれますように。
-上原暢子の現在地-
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暢子先生の現在の活動を教えてください。
暢子先生:
訪問診療と、「いっぺん死んでみる~今を生きるためのワークショップ~」(以下、「死ぬWS」)を対面とオンラインでしています。
プライベートでは、娘が3人います。
生きて還れる臨死体験をすることで、「今の自分」と真摯に向き合うワークショップ。
受講者からは「生きることが愛おしくなる」「自分にとって一番大切なことが分かった」「亡くなった家族の気持ちが分かって前に進めた」といった感動の声が数多く寄せられている。
2022年1月現在までで1200名以上が受講済み。
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医者になろうと思ったきっかけは?
暢子先生:
高校卒業したら、当時付き合っていた彼と一緒に住んで、バイト暮らししようと思ってたんです。
だけど高3になる春休みに、同居していた祖父から「医学部に行ったら100万やるぞ!」と言われたので、「行きます!」って、即答しました。
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もともと成績は良かったのですか?
暢子先生:
高2の時は、進級と留年のボーダーを攻めたし、素行悪過ぎて5日間停学になったし。学校の備品燃やしたり持ち帰ったり、学校に持て余されていました。(笑)
卒業成績は後ろから7番目です。
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そこから心機一転、100万円のために?!
暢子先生:
当時、私より年上のいとこ5人のうち、4人医学部に行っていて。地元の公立高校から現役で2人行っていたから、「東京の私立行ってる私が行けないわけがない」って思って。
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「死ぬWS」をやるきっかけは?
暢子先生:
2018年の夏に、家から一番近いお店でたまたまやっていた臨死体験講座を、興味本位で受けたのがきっかけです。
ワーク始まる前から「広めて欲しいワークだから、ぜひ録音していって下さい」って言われてね。
ラジオパーソナリティの方がされていたんだけど、内容的にツッコミどころ満載だったのと、私ならもっと面白くできる!と思って、2018年の11月から自分で開催するようになりました。
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展開が早い!先生の行動力がすごすぎる!
暢子先生:
そう?SNSで「どこそこ行きたいなぁ」って投稿とか見ると「そういうの書く暇あったら予約すればいいのに」って思っちゃう。
逆に、すぐ行動しない意味がよくわからない。
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2018年は転機の年だったわけですね?
暢子先生:
そう。15年ぶりに東京に戻ってきた年だったし。1年まるまる仕事をしないで、遊んでばっかりいました。
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なぜ1年遊ぶことに?
暢子先生:
子供の進学のタイミングで東京に戻ってきたんだけど。自分で経営していたクリニックも、大好きなおうちも泣く泣く売却して、やりたいことが一つもない東京に引っ越してきたから
「また家族都合で私のキャリアぶった切られた」って腐ってて。(笑)
でも、もう一番下が中学生だし、少しゆっくりしようと思って。
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休暇の1年は何をしたのでしょうか?
暢子先生:
まず5月にインドに1カ月行きました。
そのあと、私の書いた投稿を同業の先生に「ヘイトスピーチだ」と書かれたのをきっかけに、「もっと伝わる文章だったら真意が伝わったんじゃないか」と思って出版ゼミに申し込み。
お遍路にも行こうと思っていて10月の1カ月で行って、帰ってきた瞬間にブックオリティが始まり。
10月には1200kmの歩きお遍路を29日間で廻っている最中に「死ぬWS」の告知をして、11月は出版ゼミスタートと死ぬWS初開催。
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ゆっくりしていないような。(笑)
暢子先生:
確かに(笑)と同時に、お金がどんどんなくなる怖さもあって、美容院とかジム代とか、そういう自分のメンテナンス代くらいは単発バイトとかで稼ごうかなあと思ってたんだけど。。
いや
いや
いや
いや
貯金が0になるか、次にこれやる!って決めるまではずっと遊ぶ!と思って、「頑張って」仕事をしない、を貫きました。
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ところでなぜインドへ?
暢子先生:
中学3年生の時に好きなアーティストが当時インドにとても傾倒していて。1回インドに行ってみたいなって中学の時は思ってたんだけど。
現役で大学行って、仕事が始まって、子育てが始まって。インドに行くことなんてすっかり忘れてて。最初は、子供の受験結果待っている間、関西離れる前に1泊2日とかで旅行に行こうとか思っていたんだけど
「そうだ!インド行かなきゃ」と思い出したんです。
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インド、どうでした?
暢子先生:
1週目は現地の小学校視察+観光というスタディツアーに行って、2、3週目はボランティアに行って。まぁ汚くて、うるさくて、騒々しいところだったから疲れてしまい。
最後の1週間は、アンダマン諸島という、インド人のリゾート地行って、海でぷかぷか浮いて帰ってきました。
よく「インド行って人生観変わる」とか言うじゃん?でも私、全然変わらなかった。(笑)
だから肩透かしで帰ってきたんだよね。もっと私、なんか「ガ〜ン!」て変われると思ってたのに。
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逆に新鮮なインドの感想!
暢子先生:
ボランティアしていた「死を待つ人の家」という施設には、屋台でチャイを作っていてガスボンベが爆発して、全身火傷した人がいたり、施設の外にはホームレスの人もたくさんいるんだけど、そのホームレスの人の隣では新生児が沐浴をしていたり。
ガンジス川のほとりにある火葬場で焼かれた遺体の灰は川に流すんだけど、その側で体洗ったり洗濯したりしてる人もいて、本当にそこは「生と死」が隣り合わせで。
気候、食べ物、肌の色、宗教、火葬の方法が違うだけで、日本でもインドでも生まれて死ぬのは全く一緒だなあ、と思って、人生観とかは全然変わらなかった。
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先生の情熱の源は?
暢子先生:
私のガソリンは
ライブ!!
ライブは中学の頃から好きなアーティストのはよく行ってたのね。
一流の人たちは、まず一度は観てみる。和田アキ子からRolling Stonesまで。歌は知ってても知らなくてもよくて、なぜあの人達が、長年そこに立っていられるのかを考えながら、穴があくほど観てる。
子供が小さい時も、ライブの時だけは、来るのに2時間かかるけど母を呼んでまで行っていたし、このコロナ禍でもアメリカまで行ってきたよ(笑)
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それくらい自分を大事にすることが、結果的に周りにもいいんですね?
暢子先生:
その時は自分を大事にするとかじゃなかったね。「ライブだけは行かせて頂きます」って、生きがいみたいなレベルで。
実家の母にお願いするのは、、 ライブ行く時と子供が熱出した時ぐらいだった。
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子供の熱と同じレベルで親を。。それ勇気になるママ多いと思います!
暢子先生:
実家とは車で2時間の距離だったから、呼んだら母も孫と会えるじゃん。かえって喜んでくれていたと思う。
でね、訪問診療の現場にいてつくづく思うんだけど、亡くなる時まで親は親なんだなあ、って思うことが本当に多くてね。
亡くなるタイミングですら、ちゃんと子供のスケジュールも全部把握した上でお別れをして行くのを何度も見てきたから。
何もできない寝たきりでも親なんだ、と思ったら実は私たちができる事は、いつまでも子供でいることだなあ、って思うから、親を頼っていいんだ、って教えてもらってる。
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すごい、、、私は親に迷惑かけないようにばっかり考えてました。
でも、自分の子供が40歳50歳になったときに「ママ助けて!」って言ってきたら「いいよ」ってなんとかするよって思う!
暢子先生:
そうでしょう。はい、ときには親に頼りましょうね。
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「そのために私がいるんじゃん」って思うことを親にさせてなかったかも。大人になったからって。
暢子先生:
でもさ?子供が笑ってることって、すごく大事なんだよね。
それが親の幸せだから。
(インタビュアー涙)
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座右の銘はありますか?
暢子先生:
座右の銘じゃないけど「見たことのない景色を見てみたい」っていうのは常に思っていて。私の原動力は、全部それ。
フルマラソン走ったのもそれ。走らないと走り終わった後の景色がわからないじゃない。
sexだって、するまでわからないじゃない、どんな感じか。見聞きしているだけじゃ。
とにかくやんなきゃわからない。体感命だと思っているから。
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体感命!
暢子先生:
体感命ですよ。CDじゃダメなんだよね。
ライブで。
体感してこなくちゃ。
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取材 ・加藤智子
◆暢子先生の連載
◆暢子先生の「死ぬWS」は女人生の必須科目
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