環境のことは、「何が本当か」分からないけど。【エッセイ】

こんにちは。経営コンサルタントの吉井です。

以前ある雑誌で、芸術家さんの「自然保護」「エコ」の作品特集を読みました。

「アートの力で自然保護をうったえる」という特集です。

世界中のたくさんのアーティストさんたちが載っていて、それぞれの作品も素敵。

読書としては大満足でした。おもしろかった!

でも、不思議と違和感が残りました。

日本のアーティストさんと、

海外のアーティストさんで、

使う言葉が違っていたんです。

人間は自然の「一部」か「別物」か

日本のアーティストさんは、「自然の中に自分たちがいる」「調和する」という言葉遣いをします。

それに対して、海外のアーティストさんは、「自然を、守る」「ちゃんとマネジメントしないと」というような表現をする。

もう少し僕のうけとった印象を説明をすると、

日本のアーティストさんは「自分を、人を、自然の一部」とみなしていて、

海外のアーティストさんは「自然と自分たちを切り離して、関わり方を変えようとか外部として影響の与え方を変えよう」と話すんです。

どちらにしても自然を大切にする気持ちは同じです。

きっと、やることも同じ。

でも、端々に現れる表現の違いに、僕はやっぱり、日本人の感性がしっくりくるなぁと思いました。

彼らにそんなつもりはないのだろうけれど「自然を保護する」という考え方と「自然を、支配する」という考え方の違いがわからなくて。

自然を、とるにたらない、自分より力のない存在と捉えている点で。

自然と一緒の方が、気持ちがいい

僕は小学生の頃、「日本中のアスファルトをはがしたい。どうやれば、はがせるだろう」とずっと考えていました。

いま思うと不思議なのですが、こんなにもアスファルトを張り巡らせていたら、地面や地球が呼吸できないと思っていたんです。

子供ながらにけっこう真剣に悩んでいて、でも、ある時アニメで、植物がアスファルトの下から次々生える様子を見て安心したのを覚えています。

「なんだ、そういうことか。大丈夫だ」と。(なにがそういうことかは、わからないけれど)

いまも同じような感覚はあると思いますが、と同時にもう一つ、大人になって幼い頃とは違う「別の感覚」も生まれました。

それは「自然の中にいた方が、気持ちよく呼吸できる」という肌感覚です。

きれいに晴れわたった朝には気持ちも同じように晴れるし、雨の日、雨音に耳を傾けると気持ちが穏やかになります。

今ちょうど外は雨が降っていますけれど、とても気持ちがいい。

植物に触れれば、くすぐったい感じがして、体が喜んでいるのがわかる。「自然の一部」という身体感覚がある感じ。

だから、少しでもいいから自然と一緒に暮らしたい。その方が気持ちがいい。

こう考えると、自然との向き合い方が少し変わってくるように思います。

「何が本当か」まったく分からないけど。

たとえば、二酸化炭素排出量は、気候変動と無関係かもしれないといわれます。

僕は科学者ではないので元々の生データを見ていないし、元々のデータを見たとしても適切な解釈をするほどの知見も持ち合わせていません。

だから、「何が本当か」はまったくわからない。

「マイクロプラスティックが体にいいか悪いかも、まだわからない」と言われれば「そうですか。わからないんですね」と、ただただ思う。

でも、だから何もしないでもいいや、とは思いません。

ちょっとステレオタイプですけど、たくさん並ぶ工場から煙が上がる様子を見たり、海の中に1mmのプラスティックが無数に(たとえば1000兆くらい)浮いている様子を考えると、ちょっと疲れます。

自分たちが滅亡するからとか、健康に悪からとか、当たり外れのある最悪の予測を回避したいからではなくて「もっと自然に心くばりをして生きる方が、いま確かに気持ちよく生きられる」という感覚がある。

僕らの「身体」は知っていると思う

ほら、水脈を見つけるダウジングのようなものを考えてみても、ニューヨーク医科大学の大村助教授が生んだOリングテストを考えてみても、きっと僕らの身体はたくさんのことを知っていて、いろいろな正解を導き出せると思うんです。

せっかくの人生なので、気持ちよく生きたくて、そのためには自然と調和したほうがいい。

自宅、仕事場などなど、自分が影響を与えられるシーンは結構多いものです。

経営者さんであれば、ビジネスをちょっぴりリ・デザインすることだってできます。

そうやって生活をていねいに作っていくだけで、その分だけ一歩ずつ「世界と自分の幸福感」は、きっとコンセプチュアルにではなく、確かに変わっていきます。

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