セドナのナナさんから届いた、日本の女性が本当の自分との繋がり自由に力強く生きていくための珠玉のメッセージ。
写真からでも音声からでも文章からでも、あなたのそのときの気分で受け取ってくださいね。
-私たちの「自然な状態」とは-
江戸時代までは「自然」という言葉は存在していなかった。
人間という営みが中心になったとき、自然というものを人間と分離してしまった存在として人間が見るようになり、そこで初めて「自然」という言葉が生まれたのです。
自然という言葉は「自ら然るべき」と書きますね。
つまり、「自ら然るべき姿」というのが自然な状態だ、ということ。
海があるべき然るべき姿、それが海の自然であり、
森であり山の然るべき姿、それが森や山の自然の状態。
そして、私たち一人一人もそう。
私たち一人一人も、自ら然るべき姿であるかどうか、それが「自然」ということです。
「自然」というのは、私たちの外にあるのではなく、私ちの命そのもの。
そういう視点からみたとき、自分の外の自然に触れて、自分の中にある自然というものに触れてほしい。
それが、人と比べたり自分を追い詰めるような状況を手放す、即座にはそれができなくても、「とっかかり」にはなるのではと思います。
-「常識」とは限定的なもの-
人によっては、人生観を変えられてしまうようなセドナの景色。
コロナ前、セドナに訪れる日本人で圧倒的に多かったのが、30〜40代の独身女性。ある程度、お仕事をしてきて、キャリアを積んで。だけども「このままでいいんだろうか?」という転機に訪れる人が多かったです。
私はガイドをするとき、「ここは〇〇のエネルギーが感じられる場所で」という話はしませんが、セドナの歴史やネイティブアメリカンの話はします。
そうすると、皆さん自分の生きていた生活の基準というものが「当たり前ではない」ということに気づくんですよね。
みんな、自分の生活というものが当たり前だと思っている。だけれども、常識や当たり前と思っていることは、その時代・その地域での限定されていること。
そして私がよく言うのは「常識は持たなくていい」と言うこと。
例えば、アメリカに来たら日本の常識は通用しないですよね。
常識って、すごく限定的なもの。時代によっても違う。今のスマホで出来ていることは、私の子供の頃だったら、まさにSFの世界...。常識というのはあってないようなもの。
常識は持たなくてもいいけれど、人としての良識で生きたらいい。
-「良識」は時代を超える-
常識というのは、「こうあるべき人間像」を自分に押し付けてしまう。会社によってすら違う。
常識はというのは常に変化する。普遍的なものではないです。
でも、人としての良識というのは、時代や地域を超えて、普遍的なものだと思います。
困っている人がいたら助けてあげるとか、目の前にゴミが落ちていたら拾うとか。そんなことは、常識でする、というよりは人としての良識でする、ということ。
常識ではなく、自分の中にある人としての良識で生きることが大切。
人としての良識で生きることができれば、人と比べる必要はないし、自分を追い詰める必要もなくなりますからね。